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思い煩うことなく楽しく生きたい

アラサー理系女子の愚痴/専攻は生物学/趣味は山登り

伝えるスキル

最近分かったことだが、私は会話が下手くそだ。

その原因は、知識不足もあるし、空気が読めていないこともあるのだろう。しかし、一番の原因は「表現力の少なさ」であろう。

自分の思っていることと相手に伝わっていることに相違があるのだ。適切な語句がすぐに選べず、変な言葉遣いになってしまうことも多々ある。

しかし、苦手だから避ける、または慇懃無礼になってしまうのはよくない。鍛えるしかないのだ。

思えば、読書感想文もろくにかけた事がない。何がどう面白かったのかよくわからないのだ。当時は「何故自分の感想を公にしなければいけないのか」という理由をつけて避けていた。まったく捻くれたガキである。

今後鍛え抜かねばならないスキルだ。

今週のお題「プレゼントしたい本」

今週のお題「プレゼントしたい本」


仕事に悩む女友人Mへ

「伸びる女 伸び悩む女」関下昌代


宗教を専門にする男友人Iへ 

「なぜ日本人は無宗教なのか」阿川利磨


山岳ものにはまってる女友人Hへ

ヤマノススメ」シロ


本屋でナンパした男へ

ショートショートの部屋」星新一


古い服が捨てられない友人Oへ

「私の家には何もない」ゆるりまい


北欧風が好きな友人Uへ

「パンとスープと猫日和」「福も来た」「優しい時間」群ようこ


情熱的な恋したい女子に

「こうばしい日々」「冷静と情熱の間」江國香織


お腹が空いた時に

「九つの、物語」橋本紡

「彼女の献立帳」角田光代

「喋々喃々」小川糸

「バタをひとさじ、玉子を三コ」石井好子


花を愛でたいときに

「花のしつらい、暮らしの景色」平井かずみ


なんども読みたい定番

ノルウェイの森村上春樹

さくらももこのエッセイ

塩狩峠三浦綾子





後悔しない

 市川由衣主演の「海を感じる時」という映画を観た。この年頃の女子は「身体だけでも必要とされたい」と思う傾向にあるようだ。私も高校時代はそうであったので、非常に共感できる内容だった。

 しかし、なぜ「身体だけでも必要とされたい」と思ってしまうのか。この年頃の女子は「私は誰からも必要とされていない」と感じる傾向にあるのかもしれない。私の場合は、当時好きだった男に振られ、自暴自棄になっていたのである。ピアスをあけたりもした。「私のことを求めてくれるなら誰でもよい」という考えに至ったのだ。そして、私のことを好きだと言ってくれた友人とそのような関係になった。性的な行為をしたのはその時が初めてだった。実際、その男の人にも好意(友人としての)があったので、彼との時間は心地よかった。彼と交わした情熱的なキスは忘れられない。

 そのことを後悔しているかと言われれば、まったくしていない。後悔はしない性格なのだ。例え失敗だったとしても、当時は15歳のガキンチョだったのだ。失敗の一つや二つしても許される年である。むしろ、失敗せず成長し、大人になってから失敗からの回復法を知らない方が、怖いはずだ。よって、過去のことはすべてよい経験だったと思っている。

 二年前、その男と10年ぶりに再開した。お互い大人になったとヒシヒシと実感した。そして、いかに当時が子供であったのかも実感した。こうやって人間はみな生長するのだ。

 しかし、仮に夫が突然死ぬとする。そうすると私は誰かにすがろうとするだろう。その男かもしれないし、他の男かもしれない。人は誰かに必要とされたいのだ。それは大人だろうと子供だろうと変わらないのだろう。

成長

仕事を始めて10年経つが、初めて上司に対して苛立ちを感じた。

しかし、冷静になると、確かに私にも非があったのが分かる。

昔の私なら自分に非があるとは思わなかっただろう。

成長したと言ってもよかろう。


自意識過剰系勘違いうさぎ女子

先日、友人夫婦に夕飯をご馳走してもらった。

その内容がFacebookに投稿されると、別の友人が「私は誘われていない」とコメントしたのだ。

これはどのような心境なのだろうか。その友人夫婦が開催する催し事は、自分は毎回呼ばれて当然だという主張なのか。こんなことを言われては、友人夫婦は困ってしまうよ。

成功体験で自信をつける

 これまで、「自称 自己判断ができない人」に沢山遭遇したが、そういう人は何を信じて生きているのだろうか。

  他人の助言?(という名の命令?)

  ネットの知識?(という名の思い込み?)

  親の教訓?(という名の狭い視野?)

 他人の意見を取り入れることは、もちろん悪いことではない。しかし、自分の考えで判断できない人は、自分の考えを瞬時に要求されたとき、どうやって判断するのだろうか。例えばYes/Noの二択を迫られたとき、果たしてどうやって選択するのだろうか。隣に座っている人に尋ねるのだろうか。

 

 情報は多いに超したことがない。大事なことは情報をどのように取捨選択するか、である。取捨選択をするのはもちろん自分自身である。どの情報を生かし、どの情報を殺すか。情報元は何を使うか。信憑性はあるのか。最終的には、それらの情報を元に自分自身で何を考えるのか。

 

 「自称 自己判断ができない人」に共通する点は、「成功体験が少ない人」と考えられる。失敗を繰り返し、時にそれを他人に責められ、自分に自信を無くす。そして他者の意見ばかり重要視するようになるのだ。

 自分に自信をつけるには、とにかく成功体験を増やすしか方法がない。そのためには、失敗を恐れずに挑戦するのみだ。一つでも納得のいく成功を収めることができれば、一気に自信がつく。そうすれば自分の考えに自信が持てるのだ。

 私も24歳ごろまでは、容姿において劣等感の塊を抱いていた。髪はくせ毛で、眼鏡をしており、肌荒れもひどかったからだ。子供のころはひどくいじめられたものだ。しかし、縮毛矯正をおこなって髪をストレートにし、眼鏡からコンタクトレンズに変え、皮膚科に通い続け皮膚病を治療した。その結果、容姿ががらりと変わった。そして、容姿に自信が持てたことにより、性格も明るくなったのだ。私の人生における重要な成功体験なのである。

 

 このように自分自身が納得する成功体験を得ることが、最も重要なのである。

大人の対応

  家に友人を数人呼んで食事をする機会があった。とある参加者が、「自分はAさんは呼んでほしくない」と言ったのだ。理由を尋ねると「Aさんとの間にトラブルがあって、会うのが気まずい、相手もきっと気まずいと思っている。」とのこと。

私はAさんのこともよく知っているが、きっとなんとも思っていない。それどころか、トラブルが発生したこと自体もわかってないだろう。

  その参加者は、何かと「あの人はきっと〜だ」「彼は〜思ってるに違いない」「あの人はきっと忙しいから誘うのをやめよう」という発言が多い。推測をするのは結構だが、それを真実だと信じ込み、それを他人にも言うからタチが悪い。それを聞いた人は、真実か推測か、分かりかねるからだ。

  予め推測することは悪いことではないが、あまりにもネガティヴな推測は、自分だけでなく周りを疲弊させる。疲れる人とは一緒にいたくないと誰しも思うものだ。他人へ不快感を与ないような大人の対応が必要とされる。

  レストランで数人で食事した時、ある2人が喧嘩をして、1人が帰ったしまったことがある。正確には、1人がもう1人に冗談を言っていたのだ。私はそのなく会話をすべて聞いていたが怒るほどのものだったとは思えない。結局怒った本人は帰ってこなかった。私は、『その程度で感情をむき出しにするなんて、なんて子供なのだろう。いい大人のくせに。』と思ったのだ。2人だけなら兎も角、多勢の人がいる中で、あの行動は大人気ない。もっと大らかな心を持った方がよいであろう。

  その人の行動はいつも私を疲弊させるが、反面教師だと思っている。このような大人にならないようにしようといつも思わされるのだ。ある意味ありがたい存在だ。